渋川八坂保存会パンフレット紹介 B面

神輿渡御(みこしとぎょう)

神輿渡御(みこしとぎょう)

渋川八坂伸社の神輿渡御は1663年に始まる。中之町に御旅所を設けたので、その地域は天王下と云われ、単独で祭を催行できる程の隆盛振りであった。

渡御は6月17日の祇園祭礼の1週間ほど前に行われた。届強な鳶頭4名で担いだと云うが、かなり重かったと言う。御祓太鼓の後に賽銭箱、神官が続き、交代要員の後には世話役が並んだ。

昭和34年を最後に祇園祭は途絶え、昭和44年渋川まつりと称して産業祭が行われたが、渡御は復活しなかった。平成22年県立青翠高校の体育会系の若者19名のカを借り、衣装と幟等(のぼり)を揃え、古来の順路で.日だけ渡御が復活した。

神輿渡御

御旅所(昭和30年頃)

 間ロ・奥行1間半、(又は方丈)、棟高3間の切妻屋根。破風板の懸魚、様式通りの虹梁、長押の両端にも文様らしきもの等々、古い和建築の仕ロに依る立派な建物だった。解体して部材で保管されていたが、その後の修理で部材も廃棄されてしまった。

現在ほしだ化粧品店
右の茶の建物警察署、赤い屋根は武道場、左の立派な蔵は正林堂。「場」と見える看板は此処に在った市場のもの。
(画像左下に数着の洋服が下がっている。)

御旅所写真

魅力


口台輪から直接、胴が構成されている「平屋台造り」、「延屋根」の宮神奥。その後様式化されたものと比べ枡組は地束で、正面のきざはしく階段)や勾欄は無い。

□台輪幅:3尺5寸(1065mm)、蔵手幅:4尺1寸(1252)、棟高:4尺4寸(1336)大きめの神輿である.

□神興は凶方正面と云い、どこから見ても同じに見えるが、この神奥は、背面は唐戸の場所には大きな金箔の巴紋が描かれ、欄間・蹴込の彫刻は無い.

□台輪紋の正面は束ね若葉で、他は巴紋のみである。欄間・蹴込の彫刻も正面と左右は異なる。

□堂内には衣冠東帯の牛頭天王が鎮座する。

口不思議なのは四隅で10mm程の青銅棒が蔵手と台輪を繋いでいるが、短い丸棒をロー付けで接合したもので、明治の修復で付けられたものだろうか?

瓔珞(ようらく)

四面の羅網瓔珞(らもうようらく)は線刻のある枠板と96枚の小さな要素で構成され、四肩に吊す風鐸婆洛(ふうたく)は風鐸鉢と風招と6枚の銀杏を共にガラスビーズを介して連結している。310年前にガラスビーズが入手出来たことに驚<。風鐸は魔除けの意味合いで寺社の軒先には今でも使用されている。

瓔珞

起源 神輿のはじまり

 奈良時代、元正天皇の養老4年(720)九州で「隼人の乱」が起き、朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、1万を超す軍隊を派兵した.この時、朝廷は字佐八幡宮に勅使を派遣し、国家鎮護と隼人討伐を析願した。八幡神は「我征きて降し伏すべし。自ら神軍を率いて隼人討伐に赴く」と託宣を下した.朝廷は豊前国司宇努首男人(うぬのおびとおひと)に令じ、八幡神の神霊が乗る神輿を作らせた。

『八幡宇佐宮御託宜集』に、「豊前国司に仰せつけられ、初めて神奥を作らしむ」とある。

神輿の巴紋

巴は水が渦を巻く様と解釈され、平安末期の建物に葺かれたれた軒九瓦などに火災除けとして、巴紋を施した。後に特に武神である八幡神の神紋として巴紋が用いられ、更には他の神社でも神紋として用いられるようになった。このため神奥には巴競が多く描かれている。

神輿の巴紋

牛頭天王 ごずてんのう

牛頭天王は、京都祇図社(現八坂神社)の祭神であった.
釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされている。
蘇民将来説話は天王の嫁取り伝説で、茅の輪くぐりもここから派生している。牛頭天王に対する神仏習合の信仰を祇園信仰といい、中世までには日本全国に広まり、悪疫退散・水難鎮護の神として祭礼が各地で盛んに催されるようになった。明治維新の神仏分離によって、全国の牛頭天王を把る祇園社、天王社は、スサノオを祭神とする神社として強制的に再編された。今でも八坂の神奥を「てんのうさま』と呼ぶ人も居る。

牛頭天王