天王下(八坂町)

渋川 八坂神社の歴史

 渋川市場は、澁川宿に寛永7年(1630)に開市されたという。この二・七の六斎市場の繁栄を守る市神様が、澁川宿の中央である中之町に、初市(1月12日)と祭礼(9月16日)に、八坂神社から神輿が渡御した。この神輿の鎮座地から、下之町境までを天王下、または八坂町といった。
 初市に神輿は氏子によって、上・中・下の三町を巡回し、市の繁栄を祈願した。また、祭りの間は中之町の通りに面した鎮座地に渡御した神輿を人々が礼拝した。
 八坂神社は、渋川市渋川628番地(並木町)にあり、澁川宿の市神として鎮座する。渋川村の領主、安中城主水野備後守元綱が承応3年(1654)に京都の八坂神社を勧進したといわれている。
 江戸時代は牛頭天王を祭神として「天王」と呼ばれていた。当社は、寛文3年(1663)の「西上州車郡渋川村免田畑検地帳」(渋川市立図書館蔵)に「天王免 下畑7畝6歩 前々川欠 満蔵院免 同断、 下畑6畝16歩前々境内社敷 同断、同断 下畑 6畝22歩 同断、同断 新下田 28歩 同断」とあり、別当の天台修験満蔵院が管理していた。
 
本殿は、棟木の側面の墨書に「元文二巳年(1737)5月吉日、上列群馬郡阿久津村 棟梁板倉忠右衛門」とある。
 慶応2年(1866)に六軒町から出火した火災で、「社殿灰燼セシモ、御神体ハ勿論神輿ト共二幸二恙ナク、柴田氏別室に遷ス、明治10年社殿ヲ造営ノ上、再ビ現境内二遷座ス」(八坂神社由緒)とあり、御神体が寄居町の柴田大学の家に遷座したとあり、現在地に明治11年に再建されたという。
 明治13年の「神社明細帳](群馬県立文書館蔵)には「上野国西群馬郡渋川駅字元宿東裡無格社八坂神社祭神素菱鳴尊健御名方神保食神由緒 承応年間当駅市場開設ノ際 西京八坂神社ヲ勧請シテ此ニ鎮座シ崇敬スル
コト歳百有余年トス…」とある。
 この天王下の屋敷に住む人々を、天保13年(1842)に開眼した眞光寺涅槃像裏面の寄進者名から記すと、眞光寺檀家の源左衛門・清右衛門・梅八・他檀家の弥五右衛門・瀧吉・藤兵衛・清九郎・長次郎の八人が見られる。

 

(三国街道渋川宿 中之町の変遷 上巻)