渋川の祇園祭り

 渋川の祭礼は記録などによると、古い時代から催されていたと考えられる。
江戸末期の祭礼の余興には、神楽・手踊り・地芝居・相撲・競馬・義太夫・人形浄瑠璃・寄席・軍談などが行われていたであろう。
 もともと、澁川八幡宮と八坂神社の祭りは別々に行われていた。渋川八幡宮の祭礼には如来寺が采配をふり、若者たちを集めて踊りのけいこなども行い、また、八坂神社は市神で、市日や祭礼の日には、地芝居・義太夫・相撲・踊りなども催されていた模様である。
 この祭礼が、いろいろな経過を経て、明治7年7月14日の町内総代の集まりにおいて、八幡宮の祭礼を9月1日八坂神社の祭礼を9月2日とし、連続して行うよう決定された。したがって屋台は9月1日八幡のぼり、2日町内めぐりを行って、天王の地に渡御された八幡神社の神輿を拝礼する。
 祭礼合併当時屋台のあった町内は元宿・裏宿・川原町・上之町・中之町・天王下・北横町・南横町・下之町・新町と思われる。寄居町は現在獅子頭を保存し、祭典のたびに会所に飾ることから、祭りには何らかの形で参加していたと思われる。
 記録によれば、祭礼当日ねり物が八幡宮へのぼっている。当時の屋台は、屋台枠の中心に柱を立て、丸万灯や角万灯を飾付けたもので、移動する御柱であった。車は欅の大木を輪切にしたものであった。
 明治43年、澁川に電灯がひかれ、電灯線の架設や電車の架線のため神輿に切り替えた町内もあるが、大正2年ころから、これに対応できる山車を購入するため、各町は高崎・埼玉県鴻巣・東京神田などに出かけて山車を買い、改造を加えて、大正8年頃にはほぼ勢揃いした。
 寄居町に活動写真や寄席が始まり、芸妓の数も次第に増して百人を超えた時期もあった。祭には勢揃いする椅麗どころの手古舞姿に花笠を背に金輪と鈴の音と共に寄居町の山車の先頭でにぎやかした。
 山車は午後3時頃八幡のぼりのため、元宿(現元町)に集まり、家々を借りて各町が会所を開いて、時間待ちの余興を行った。
 また、町内まわりの見所としては、儀礼うち(祭礼手打式)がある。昭和52年の祭礼時には、東から新町・辰巳町・東町・下郷、西から中之町・下之町、南から長塚町・南町・北から寄居町・坂下町の山車が四つ角に面して集まり、手打式を行った。

(渋川市誌 第4巻 民俗編)